自分の作った料理が好きだ。
自分の作った料理が好きだ。
性格が雑なので、盛り付けも適当だし、
煮汁がお皿に跳ねていたって気にしない(気にしろ)
でも、味は最高なんだよ。
実はね、私のおばあちゃんの味なんだ。
私は小学校5年生の頃から料理を始めた。
その頃の私の両親は仕事が忙しかったから、朝に私を起こしたら すぐに出勤して、
帰りは夕飯が出来上がったころに帰宅するような生活だった。
学校から帰ると私は、外で友達と遊び
家に帰ると、おばあちゃんがもやしのひげを取っていたり
おでんを仕込んだりしていたものだった。
毎日、玄関を入るといい匂いが届いてきて
「あ!今日は煮魚だ!」
出てくるおかずはどれもこれも美味しくて、
毎晩の献立が、すごく楽しみだったのを覚えている。
「かーつぼちゃんも、してみる?」
ある日、おばあちゃんにそう言われて
何も考えずに晩御飯づくりのお手伝いをする日が始まった。
玉子の割り方を工夫したり、米を研ぐときは反時計回り
(右利きの場合ね)の方が米が跳ねないんだ!みたいな事を
発見して、毎日ワクワクして過ごしていたのを覚えている。
野菜の皮むきは、その頃ピーラーなんてなかったから包丁で
ゆっくり、ゆっくりと少しづつ。
ぶきっちょな剥き残しがあっても、おばあちゃんが隣で
直してくれた。
包丁が使えるようになると、料理に合わせた薄さや長さを教えてもらった。
いつもの工程はおばあちゃんが少し切った後、「残りよろしくね」と
私にバトンタッチだ。
面白いのは、おばあちゃんは私が包丁と格闘している間、
横でじっと付いて見ずに、お鍋の様子を見に行ったり
お皿を片したり離れては、時々見に戻って来てくれていた事。
私は一人で、見よう見まねで野菜を切り、決しておばあちゃんと
同じように切れていないにも関わらず、
任されたような気分になり、得意げだった気がする。
大人になった今なら判るけれど、
小学生のぎこちない包丁さばきに
口を出さずにいるなんて、出来ないんじゃないかな。
怖いってなもんじゃない。心臓に悪いよ。
だからきっとおばあちゃんも、大人ぶって切る私の事を
ハラハラしながら横目で確認してくれていたと思う。
そんな毎日が過ぎ、私が中学校に上がる頃には
魚を簡単だけれど捌き、揚げものに合わせて
温度の調節も出来る様になった。
部活やら、友達との付き合いやらで忙しくなったけれど
ゆっくりとした週末なんかに、二人で座って栗を剥き
「栗ご飯のお水はね、海くらいのしょっぱさ」
塩を入れては何度も味見をしたりして
時々、そうしておばあちゃんと晩ご飯を作ったりしていた。
高校、就職となると家を出て、寮や一人暮らしをするようになったんだけれど、
自炊しなければ!と意気込むものの、【自分一人分だけの煮炊き】が
どれだけかも見当がつかず、余る程作ってしまい、よく困った。
なにより、常に「こんな味だったっけ?」と思いながら
自分の料理を食べていたと思う。
一人で食べる作業がつまらなく味気なかったのもあるが、
ちょんぼり作る料理より、たくさん作っただけ美味しく出来上がる!
を肌で実感したのだった。
2年ほど経ち、仕事にも慣れたある日。
実家から電話が入った。
「おばあちゃんがね、癌で・・・
治療が尽きたから、連れて帰って自宅で看取るから」
私は、呼吸を整えるので精いっぱいだった。
何言ってんだ?おばあちゃんまだ70歳じゃん。
私が知らなかっただけで、おばあちゃんは
長い事、手術や治療で入退院を繰り返していたという。
翌月、私はアパートを引き払い、実家に戻った。
死なせないよ。私が死なせない。
実家に向かう車を運転しながら、拭いても拭いても涙が落ちてきた。
実家に戻った私に
「かーつぼちゃん、おかえり」
そう言って笑うおばあちゃんに、拍子抜けした。
冗談でからかわれたのかと。笑いたかったな。
でもそうじゃなかったみたい。泣きたくなった。
顔こそふっくらしているが、手や足は痩せて
細くなっちゃっているし、少し歩いては息切れをしていて。
姉と交代で、身体をさすったり拭いたり、
綺麗好きなおばあちゃんが気になっている、家の掃除をやった。
おばあちゃんの隣で、床の間用の花を口伝いで活けては
不細工な出来上がりにみんなで笑ったりもした。
下のお世話なんかは平気だったけれど、食事が難しかったの。
消化が弱っているから、出来るだけすりつぶしたり
溶かしたりしたんだけれど、味がなかなか決まらないんだこれが。
おだしの配分を変えたりして、出来るだけ美味しく食べて
もらいたかったんだけれど、試行錯誤の繰り返しだった。
驚いたのは時々
「どん兵衛っていうの?あれ食べたい」
なんて無茶言うの。
赤ちゃんのお茶碗くらいしか食べられないけれど、満足げに
「若い頃にあったら、毎日食べたいわね」と笑ったりしていた。
ハイカラなおばあちゃんだ。
いつものようにおばあちゃんに
「今日は何が食べたい?」と聞くと
「そうね、かーつぼちゃんの炊き込みご飯が食べたいわ」
と言われた。
一瞬、「げ、まじか」と思った。炊き込みご飯は、
今まで一度も良くできたねって言われた事が無かったから。
余談だが、うちのおばあちゃんは関東からお嫁に来て
実家は大層な家系だったみたいで、お嬢様として育ってきたらしいの。
宿題で戦争の体験談を聞くと
「疎開先で、毎日食べたことないものばかり食べて
大人と遊んで楽しかった」なんて言う人だし、
自分の育ってきた環境に倣って食卓を飾るもんだから
我が家の食事は、小鉢や長皿など凝った食器でわんさかと
旅館の様にお膳立てされていた。
運動会などのお弁当は、何段ものお重箱に
おばあちゃん、私の実母との【嫁姑コンビ】での
力作が詰められており、とても食べ切れなかったのを覚えている。
おばあちゃんは中でも【釜飯】が大好きで、両親が出張に行くと
少し遠回りになってもお土産にお願いするほど、
炊き込みご飯に目が無かった。
だから、おばあちゃんは家でもよく炊き込みご飯を作ってくれた。
お供はいつも、ポテトサラダと漬物にすまし汁。
我が家の【おばあちゃん定食】だ。
関東特有のお醤油の塩気が効いた、
ふんわりと香ばしい【おばあちゃんの炊き込みご飯】・・・。
具の大きさや、ゴボウなどの香りの配分がもう少し・・・と
必ず直されててきた【あの炊き込みご飯】・・・。
「よーし!今夜は炊き込みご飯!」
腹をくくって、台所に戻る。
作るとなったら仕方がない。
ありったけの材料を出して、テーブルに広げた。
鶏肉、乾燥シイタケ、キノコ、ごぼう。
かまぼこや油揚げ、にんじん。
どう作ったかは覚えてないけれど、おばあちゃんに習った通り
これがおばあちゃんにとって、最後の炊き込みご飯に
なるかもしれないと思った記憶がある。
ポテトサラダとすまし汁も作った。
食べ切れないと判っていたが、おばあちゃんのお茶碗にお汁椀。
お気に入りの食器にそれぞれを、しっかりと入れた。
どうせならみんなで食べようと、姉と私のお膳も
おばあちゃんの部屋に運んだ。
「いただきます」
すまし汁を飲んだおばあちゃんは、「ん」とほほ笑んで
炊き込みご飯を、口に入れた。
「はあー、おいしいこと」
そう言って二口目を口にした。
この時点でもう、私は安堵からのガッツポーズなんだけれど(実際にした)
気を遣ってくれたのかな、とも思っていたの。
「いつもと一緒じゃない?」とモリモリたべていた姉に
おばあちゃんがね、言ったの。
「この炊き込みご飯はね、私の味と同じ」
「もうかーつぼちゃんに教える事、なくなっちゃったわねー」
だって。
はしゃいだけれど、台所で片付けしながら
めっちゃ泣いちゃって。スペシャル号泣。
お墨付きが出た事より、もうおばあちゃんと台所に
立つ日はないんだと思いっきり判ったから。
もう裁縫や書道を、教えてと甘えることも出来ないと判ったから。
姉がこそっと「免許皆伝じゃん」って慰めてくれたけれど
この夜は、心の整理がつかなくて眠れなかった。
おばあちゃんはそれから、眠る日が増えていき
10日後くらいに、家族みんな見守る中で旅立っていった。
私も今では3人も子供を授かって、献立を考えるのに
毎日うんざりとするけれど、お米を研ぐ時だけは
よくおばあちゃんと話をする。頭の中で。
「米を研ぐときは反時計回りね」
「今回の粒、大きいね!これ見て?おばあちゃん」
あと、その日あった事などをつらつらと。
返事は勿論ないけれど、いつも見ていてくれていると
信じている。焦がしたり、噴きこぼしたりと相変わらず
ヤキモキさせているだろうと思う。
あはは。ごめんよ、おばあちゃん。
決して特別な料理も、凝った盛り付けも出来ないけれど
私が習ったメニューは全て特別な【おばあちゃんのご飯】。
だから、私は自分の作った料理が好きだ。
2020/09/24