自分の機嫌は自分で取りたい
私は3人の子育てをしながら、幼い我が子達に
「【嫌いだ】と決めるのは、最後の最後でいいんだよ」
と何度も何度も言ってきた。それは私が実父から習ってきた事であり、
知っていてとても役に立った言葉だった。
「好き」から「嫌い」になるのには、すごく簡単に変われるけれど、
「嫌い」からは「どうでもいい」にしか変われないからね、と教えてもらった。
思春期の年頃には、周りが誰もかれも敵に見えた時があったのだけれど、
この言葉で何度も気持ちを落ち着かせることが出来た。
人生を半分終えた今でも、必要以上に人や何かを「嫌い」と決めつけずに来れていると思う。
好きに変われる【苦手】は多くてもいい、【嫌い】はとても少ない。それ位が生きやすいと感じている。
けれど時間を掛けて、何度も【苦手】に押し戻したりしながらも、
どうしても【嫌い】と決めてしまったら、もう私の人生には関わらせないと決心する。
目の前にいようが、「私の記憶」には残さない。人付き合いとして敬意は払うけれど、
関わったメモリーを全消去する。言ってもこの年で【嫌い】な人は3人程。少ない方じゃないかな。
【嫌い】な食べ物も、私にとってはこの世には存在していない物体だ。
娘のこの辺の極端な性格を心配して、実父はこのように躾けてくれたんだと思う。
我ながら潔癖な思考だと思うけれど、持って生まれた性格なので仕方がない。
自分の機嫌は、自分で取りたいんだもの。
【嫌い】が減るとどうなるか
では、私が言い続けて育てて、我が家の子供達はどうなったかというと。
「けっこう好き」な物、人が異様に多い。
変な言い回しですみません。でもこれが一番しっくりとくる。
なんというのか、無理して【好き】になる努力が必要なくなるみたい。
いつでも【嫌い】になれるんだから「ほぼ全部好き」でいいじゃん、苦手な物や人は、
据え置いて(?)という感じで、明日になったらまた変わるかもねー♪と
『来るもの拒まず』な生き方をしています。
これがとってもラクチンそう。
年頃なので、本人達にとっては親の知らないあれやこれやと大変なんだろうけれど、
コミュニケーションや日常であまり【好き嫌い】に揺さぶられる事が少ないように見える。
どちらかというと出来るだけ【事実だけ】を並べて、答えを出そうとするので、
自分から謝る事も、自覚した上ならば全然苦じゃないみたい。
良く見聞きする「好きな事を諦めない」や「夢を見つけよう」というのは、綺麗なフレーズだけれど
見つからない人にとっては、自分はダメな人間なのではないかとドツボにはまりそうで心配になる。
確かに好きな事や夢を追い続けられる熱量は、物凄い経験値となって返ってくるだろうけれど、
「全部やりたい」「夢が変わった」でもダメな理由はない筈。負けずに得るものが山盛りじゃないか。
変な話【好き】を探していくと、「これは【好き】ではない」と選別し始めて、
かえって【嫌い】を増やしてしまう事が多い気がする。これはもったいない。
【嫌い】を減らすと【好き】が増える
【好き】も【嫌い】も、探す必要はないよ。自然に見つかる。
こう書いてみて思ったけれど、うちの父ちゃん、いい事教えてくれたなあ。
よっぽど娘の私が「嫌なものは、嫌なんじゃ!」と毎日きつかったんだろうなあ、と笑ってしまった。
あくまでも我が家の方針なので、読んでくださった方へ
なんの参考にもならないかも知れませんが、ふと書いてみました。