【人に迷惑をかけてはいけません】
「完璧な人間なんていない。結果的に迷惑をかけた、となる事は合っても、
自分から人様の「時間」「体力」「気持ち」を毟り取って迷惑をかけてはいけません。」
そう躾けられて育ってきた。そして我が子にもそう躾けて来た。
所が、だ。
最近「迷惑はかけてもいい」というような文章を目にした。
失敗し迷惑をかける事を恐れてチャレンジしないくらいなら、
迷惑なんか気にせずにチャレンジするべき!という話や、
迷惑なんて生きていれば、誰もがするしされるし、それが当たり前。という話だった。
「なるほどなあ。」と言う気持ちと「いやちょっと待て」の両方が頭の中をグルグルする。
話の筋をずらされている様な気がするのだ。
そもそも論を言えば、迷惑なんてものは、
【掛けたくはないし、掛けられたくもない】ものだと思う。
ややこしくなるので、ここでは【やむを得ない場合】の話は含めない。
めい‐わく【迷惑】
ある行為がもとで、他の人が不利益を受けたり、不快を感じたりすること。また、そのさま。「人に迷惑をかける」「迷惑な話」「一人のために全員が迷惑する」
とあるように、【迷惑】は、必ず他者を巻き込むか巻き込まれるかという話なので、
「かけてもいいんだ気にするな」とは何事か、と思ってしまうのだ。
困っている人がいれば助けたいし、助けて貰ったら申し訳なく感謝していく。
それは「迷惑」ではなく「思いやり」のような気もするが、かといって出来る事と言っても、
それは「自分の助けられる範囲」でしか助けられないし、
相手に無理をさせる理由にもならない筈だ。
迷惑を気にせずにかけていこうぜ。という理屈を通せば、結果的に周り回って
人からバンバン迷惑をかけられてもOK。と同義となる事はどう思うのだろうか。
私は不必要な迷惑は許容していきたくないと思うし、かけたくない。
やはり冒頭の様に「各々が迷惑はかけないように意識・人助けは思いやり」とすることが
【迷惑の母集団】を減らして、全体の【迷惑をかけた・かけられた】体験の減少に繋がると思っている。
「気にせずに迷惑かけていこうぜ」というのは、
いつどこにでも迷惑を降り撒りまいていくぜ宣言に聞こえて
「助けないといけませんか」感が半端ないのである。
迷惑をかけて胸張られましても。なんだよな。
でも、助けないとぼろクソに叩かれる?勘弁してほしい。
斉藤由貴だって言ってますものね。
「卒業式で泣かないと冷たい人って言われそう」って。
そんなの、親切でもなんでもない。助けたいと思って助けたい(意味がわかんない)
現代の世の中は、傷つきやすく、腹を立てやすくて許し難く、
応援するならまるっと100%必須で、批判なんて以ての外
被害者は1%の非も無く象られ、加害者は1パーセントの存在価値も認められない。
えらい極端な世の中になったと思う。
自分を大事にすることは、他者を蔑ろにするということではない。
自分と他者は、どちらかを優先選択しないといけない訳ではない。
どちらも共存できるし、誰もが少しづつ譲り合い、認め合えると信じて生きている。